キャンディ・H・ミルキィさん。
女装愛好家として長年にわたり注目を集め、2017年には「キャンディ・キャンディ博物館」を開設して“自分らしく生きる”姿を示した人物です。
しかしその裏には、家族との苦悩、指定難病との闘い、そして2025年3月27日に72歳で逝去されたという壮絶な終章がありました。
この記事では、家族との関係から病気の真実、死因に至るまで、キャンディさんの人生を徹底解説します。
愛好家として・館長として・そしてひとりの人生として、彼が残したメッセージを紐解きます。
誰もが振り返ることのない“もう一人の人生”を、ぜひ最後までご覧ください。

出典元:『https://www.tv-tokyo.co.jp/plus/documentary/entry/202305/13344.html』
キャンディ・H・ミルキィのプロフィール概要
・本名:塩沢 雄三(しおざわ ゆうぞう)さん
・出身地:東京都
・生年月日:1952年頃生まれ
・主な活動名:キャンディ・H・ミルキィ — “女装愛好家”として原宿歩行者天国で人気を博した人物
活動名・ニックネーム・初期の歩み
彼の本名は 塩沢 雄三(しおざわ ゆうぞう) さん。
東京都出身で、30代のころに写植会社を営んでいたという事実が、まず“普通じゃない人生の導火線”として立ちはだかります。
そんな彼が女装に目覚めたきっかけは、昭和の名作少女漫画〈キャンディ・キャンディ〉への強烈な心酔からでした。
コレクションとしてキャラクターグッズを集め、雑誌や掲載誌を読み漁る日々が、やがて「女装してその世界に飛び込もう」という決意に変わったのです。
離婚後に会社を畳み、羽田空港に作業員として勤務しています。
1988年には、アマチュア女装者向け雑誌「ひまわり」を創刊。
情報もインターネットもまだ一般的でない時代に、女装趣味を持つ人たちの“居場所”を自ら作り出した。
これは、まさに“自分の好き”を社会に投げかけた革命的な歩みといえるでしょう。
さらに注目すべきは、女装趣味を“趣味”としてだけ終わらせなかった点。
ドレスや靴リボンを自作し、手芸店で材料を選ぶところからこだわり、「自分らしい姿」は既製品をまとうだけではなく、自分で作り上げるものだというメッセージを体現しました。
2017年には東京柴又に『キャンディ・キャンディ博物館』を開設しています。
30代で起業し、女装に向き合い、雑誌を発刊し……それは「普通じゃない」を飛び越えて「唯一無二」を選ぶ人生そのものだったのです。
世間の誤解に答える! pic.twitter.com/7rfZ9SDFBk
— キャンディ・キャンディ博物館 (@Candy_Museum) November 23, 2022
キャンディ・H・ミルキィの家族関係と私生活
自らの女装愛を貫いたキャンディ・ミルキィさんの人生は、ご家族との関係において、多くの葛藤とドラマがありました。
ここでは、彼の個性的な生き方が、ご家庭にどのような影響をもたらしたのかを分かりやすく解説します。
結婚・離婚・(家族)子どもたちのエピソード
キャンディ・ミルキィさんは、20代で結婚し、3人の男の子をもうけました。
しかし、女装愛好家としての活動が活発になるにつれ、家庭生活とのバランスが崩れていきます。
・離婚の理由: 彼の女装趣味が収まらず、仕事や家庭を顧みなくなったため、元妻は「生理的に受け入れられない」として家を出て、1994年に離婚が成立しました。
・子育て: 離婚後、3人の息子は長男・次男はキャンディさん、三男は母親と暮らすことになりましたが、息子達との交流は続いていました。息子たちは、夕食のメニューでその日の泊まる家を決めるなど、ユニークな方法で両親との関係を保っていたことが報じられています。
奥様を説得はしたようですが、理解を得るのに難しかったようです。以下のように語っています。
似たような境遇の人に話を聞いて、ある一定の理解は得られたと思う。それでも、「生理的に嫌だ!」と拒絶されてしまった。
■『https://getnavi.jp/lifestyle/1008169/』より引用
キャンディ・ミルキィさんは、離婚という辛い経験をしながらも、父親としての愛情を子どもたちに示し続けようと奮闘しました。
家族との関わり・女装活動が家庭にもたらした影響
彼の女装活動は、家族にとっては長年、理解の難しい問題でした。
しかし、時を経て、家族の気持ちには大きな変化が訪れます。
・女装の原点と姉: 彼の女装のきっかけは、幼い頃に4歳年上の姉の服をこっそり着た経験でした。晩年、姉はテレビ番組を通じて、彼の女装姿を初めて公の場で見て、長年の葛藤を乗り越え理解を示す場面がありました。インタビューでも次のように語っています。
悩みながらも、姉がいないと姉のものを着てた(笑)
大人になって聞いたら、姉も気がついてたとは言ったのね。
でも弟だからそんなに嫌な気持ちはしなかったみたい。■『https://note.com/interviewer/n/n13dc1ecef742』より引用
・孫世代の理解: 一時期、息子から「教育上よくない」と孫との面会を避けられていましたが、孫(姪っ子)が成長すると、「学校にもこういう人がいる」とキャンディさんの姿を自然に受け入れ、女装姿で面会が実現しました。
「何お父さん変なこと言ってんの、全然私は平気なのに。うちのクラスでもいるよ」とか言ってさ。
■『https://note.com/interviewer/n/n13dc1ecef742』より引用
キャンディさんの人生は、女装という「自分の好きなこと」を貫いたことで、家族に一時的な苦難をもたらしました。
しかし、彼が正直に生きる姿勢を見せ続けた結果、最終的には家族との間に深い理解と愛情を取り戻したと言えます。

出典元:『https://note.com/interviewer/n/n13dc1ecef742』
キャンディ・H・ミルキィの病気と健康問題
常に「メルヘンの世界」を体現してきたキャンディ・H・ミルキィさんですが、晩年は病気との闘いでした。
しかし、彼は病の進行の中でも、最後まで女装愛と人生を貫き通すという類まれな強さを見せました。
診断された病気・健康状態の変化
・【大きな転機】脳梗塞: 2019年以前、定年後も働いていた羽田空港でのアルバイトを脳梗塞の発症を機に退職しています。この病が、彼の健康状態における最初の大きな転機となりました。
・【宣告された難病】特発性間質性肺炎: 2020年頃に、特発性間質性肺炎(IPF)という進行性の難病と診断されました。これは原因不明の肺の病気で、宣告後の平均余命が5年程度と言われる厳しい病です。
・【公表時の心境】 診断直後は「死にたくない」という恐怖で混乱したそうですが、その後は「一日でも長く生きよう」と前向きに治療に専念する決意を固めました。
脳梗塞から立ち直った後に、さらに進行性の肺の難病を宣告されるという、想像を絶する人生です。
それでも「キャンディ・キャンディ博物館」の活動を続け、「死ぬまでやりたいことをやる」という彼の生きる執念には、頭が下がります。
治療経過・公表されていた症状とその後
特発性間質性肺炎は、主に息切れや乾いた咳が進行する病気です。
キャンディさんの闘病生活は、以下の特徴がありました。
・症状の進行:晩年は、自宅に大量の酸素ボンベを置かなければならないほど、呼吸状態が悪化しました。日常生活を送るのも困難な状況となっていたことが報じられています。
・終末期と終活: 病状が悪化し、残された時間を意識したキャンディさんは、「終活」を開始しました。自分の墓所は「キャンディ・キャンディ博物館」にすると遺言し、最後まで自分の愛する世界と一体化するという決意を公表しました。
・最期まで女装: 2025年3月19日に体調を崩しICU(集中治療室)に緊急入院しましたが、その直前まで女装姿での活動を続けました。入院後も「最後の最後まで自分の姿を映してほしい」と望み、ICU内での取材も特別に許可されました。
キャンディ・H・ミルキィの死因と2025年の旅立ち
キャンディ・H・ミルキィさんの最期は、まさに彼の人生を凝縮したような、「最後まで自分らしさを貫く」という強い意志に満ちたものでした。
難病との闘いを経て、彼は愛するメルヘンの世界へと旅立ちました。
公式に発表された死因・享年など
・逝去日: 2025年3月27日
・死因:特発性間質性肺炎
・享年: 72歳
彼は2020年頃にこの難病と診断され、平均余命5年という厳しい宣告を受けていました。
彼の逝去は、宣告からちょうど5年目にあたります。亡くなる直前、2025年3月19日には体調が急変し、ICU(集中治療室)に入院していました。
宣告された病に怯むことなく、その余命のほとんどを「キャンディ・キャンディ博物館」の運営や、歌手デビューなど新しい挑戦に捧げたことは、並外れた生命力と情熱の証です。
文字通り、燃え尽きるように生き切った人生だったと言えるでしょう。
葬儀・追悼・残されたメッセージ
彼の逝去は、親族を通じてFacebookで公表され、多くのファンや関係者に悲しみとともに、感動を与えました。
逝去の数日前に、彼は親族を通じて次のようなメッセージを残しました。
「私の墓所は、『キャンディキャンディ博物館』です。皆様に託します。キャンディキャンディ復活保存運動、志半ばにして逝きますが燃え尽きる思いです。」■Facebookより引用
この言葉は、彼の女装愛と「キャンディ・キャンディ」への献身が、自己の存在そのものであったことを物語っています。
・葬儀と追悼: 葬儀は20人程の親近者にて営まれました。彼の死後、LGBTQ+コミュニティや、交流のあった多くの人々から「唯一無二の存在」として追悼のメッセージが寄せられました。特に、誰にも左右されず「一人パレード」を続けた彼の姿勢は、多様性の尊重を体現したとして高く評価されています。
・博物館の継承: 彼の遺志により、「キャンディ・キャンディ博物館」の運営は、愛着のある場所である葛飾区柴又の「昭和レトロ喫茶セピア」に引き継がれることが発表されました。
葬儀には30年前に別れた元妻も参列されました。
「私はやっぱり当時、女装を認められなかったけど、息子たち3人が最終的に父親のことを毛嫌いするとか、認めないということがなかったので、それは良かったと思います」
■『https://news.livedoor.com/article/detail/28678936/』より引用
上記の言葉を残しています。
キャンディ・H・ミルキィ:生涯を貫いたメルヘンの哲学
女装愛という情熱を武器に、誰にも真似できない人生を駆け抜けたキャンディ・H・ミルキィさん。
彼の生涯は、私生活での葛藤、難病との闘い、そして最期の瞬間まで「自分らしさ」を貫いた、感動的な物語でした。
家族関係においては、女装趣味が原因で妻とは離別しましたが、3人の息子との絆は途切れることなく維持し続けました。
ユニークな方法で子どもたちと交流し、最終的には家族全員の深い理解と愛情を勝ち取りました。
病気との闘いでは、脳梗塞を経て、致死性の高い特発性間質性肺炎の宣告を受けました。
しかし、彼は「余命」に怯えることなく、2024年に歌手デビューするなど、人生の最後まで「やりたいこと」を追求し続けました。
死因は、彼が闘い続けた特発性間質性肺炎でした(2025年3月27日逝去)。
最期に彼は「墓所はキャンディ・キャンディ博物館」と遺言し、愛する世界と一体となる壮大なロマンを選びました。
困難な現実の中でも、自らの「好き」と「メルヘンの哲学」を貫き通したキャンディ・H・ミルキィさん。あなたの勇気と情熱に心からの敬意を表します。
本当にお疲れ様でした。

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